تسجيل الدخول「随分と簡単に言う」「簡単だとは思っていません」「君一人で決められることでもない」「その通りです」隼人くんは、父の反論をそのまま認めた。「ですから、正式な条件は改めて整理します」「綾瀬家側の権限と責任」「白松家側が必要とする保証」「事業継続に必要な契約」「婚姻ではなく、法人間の合意として明文化します」父の口元が、わずかに固くなる。婚姻よりも。契約の方が、事業上は確実だ。誰かの感情や離婚の可能性に左右されない。責任の範囲も。不履行時の対応も。すべて明確にできる。父にとって。反論しにくい提案だった。「家同士の信頼は」父が言う。「契約だけで成り立つものではない」「おっしゃる通りです」隼人くんは、少しもひるまない。「だからこそ、僕が個人としても責任を負います」「白松家との事業に関しては」「途中で投げ出さない」「家の意向が変わっても、僕が継続する」「そのことを条件に入れていただいて構いません」「それで何年続けるつもりだ」「必要な期間すべてです」「十年でも?」「はい」「二十年でも?」「必要なら」一度も。言葉が揺れない。私が知っている隼人くんは。家の話になると、少しだけ面倒そうに笑った。関わらないといけないところはある。でも、家とは分けたところで仕事をする。そう言っていた。その人が今。十年でも、二十年でも。必要なら家の事業を担うと言っている。その意味が。分からないはずはなかった。胸の奥が。ゆっくりと冷えていく。嬉しいとは思えなかった。守られたとも。まだ感じられない。怖かった。隼人くんが。自分の人生を。あまりにも迷いなく差し出していることが。「隼人」綾瀬家の父親が言う。「お前は、何を条件にしている」隼人くんの視線が。父親から動かない。「一つだけです」部屋の中が静まる。私の名前が。出ると分かった。それでも。隼人くんは、こちらを見なかった。「白松先生を」一度、言葉を区切る。「事業連携の条件に使わないことです」声は、冷たかった。感情を抑えているのではない。感情を。完全に決断へ変えてしまった人の声だった。「兄との縁談を」「両家の事業上の利益と結びつけない」「白松先生の結婚を」「綾瀬家への保証として扱わない」「それを約束していただけるの
襖の前に立つ隼人くんを見た瞬間。最初に浮かんだのは、どうして、という疑問だった。会食の場所は伝えていない。少なくとも、私からは。終わったら連絡すると約束しただけで、来てほしいとは一言も言っていなかった。それなのに。隼人くんは、まっすぐ部屋の中へ入ってきた。濃い色のスーツに、乱れのない髪。急いで来たようには見えない。息も上がっていなければ、表情にも焦りはなかった。店員へ静かに礼を言い、襖が閉じるのを待つ。その間、一度も私を見なかった。「隼人」綾瀬家の父親が名前を呼ぶ。声には、明らかな不快感があった。それでも、隼人くんの表情は変わらない。父親へ先に返事をするのではなく、まず私の父へ向き直った。背筋を伸ばし、深く頭を下げる。「ご無沙汰しております」声は低く、よく通った。私と話す時の柔らかさは、どこにもない。ギャラリーで人と接していた時よりも、さらに整っている。誰にどう見られるかを一つも外さず、それでいて相手へ媚びる気配もなかった。父は、返事をするまでにわずかな間を置いた。「久しぶりだな」「本日は、お招きいただいていない席へ伺いましたこと、先にお詫び申し上げます」隼人くんは、もう一度頭を下げた。「今日の無礼は承知しております」無礼だと認めながら。そこに後悔は見えない。むしろ。無礼と分かった上で、それでも来ると決めた人の声だった。「分かっているなら」父が言う。「帰りなさい」「申し訳ありません」隼人くんは、すぐに答えた。「それはできません」声を荒らげることもなく。父の言葉を否定した。あまりにも静かで、迷いがない。父の眉が、わずかに動く。綾瀬家の父親も、何も言わず息子を見ていた。真哉兄さんは、隼人くんの立ち位置を測るように目を細めている。郁人先生だけが、いつもと変わらない顔で座っていた。「何のために来た」父が尋ねる。隼人くんは、そこで初めて部屋全体へ視線を向けた。父。綾瀬家の父親。真哉兄さん。郁人先生。最後まで、私だけは見ない。「白松家と綾瀬家の今後について、私からも意見させて頂きたくお伺いしました」父の目が、少しだけ鋭くなる。「誰から聞いた」「重要なのは、誰から聞いたかではないと思います」返事は早かった。「事実として、白松先生と兄の婚姻を、両家の事業連携と結びつ
「今なら、改めて考える余地がある」私の中では。考える余地など、最初からなかった。それでも。父親たちは、私の返事を急いでいるようには見えない。むしろ、すでに条件を並べ終えた上で。あとは本人同士が承諾するだけだと考えているようだった。「郁人さんは」綾瀬家の父親が、息子へ視線を向ける。「どう考えている」部屋の空気が。さらに静かになる。私は、思わず郁人先生を見た。郁人先生は、すぐには答えなかった。急に話を振られたからではない。言葉を選んでいるというより。自分の考えを、どこまで話すべきか判断しているように見えた。「白松先生であれば」やがて。低く、落ち着いた声が響く。「私から断る理由はありません」胸の奥が、わずかに詰まった。驚いた。というより。郁人先生が、その可能性を否定しなかったことに。一瞬、言葉が追いつかなかった。郁人先生は。いつもと同じ顔をしている。照れも。迷いもない。まるで、仕事上の提案に対し。条件を確認して答えているようだった。「仕事でご一緒して」郁人先生は続ける。「医師としての考え方も、ある程度は分かっています」「判断も、安定していると思います」それは。私自身への評価のはずだった。けれど。今は、縁談を受け入れる理由として使われている。「生活については」綾瀬家の父親が尋ねる。「話し合いは必要でしょう」郁人先生は答えた。「お互いに仕事がありますから」あまりにも淡々としていた。だからこそ。この話を本当に現実のものとして考えているように聞こえる。真哉兄さんは、何も言わない。父も。綾瀬家の父親も。郁人先生の答えを、前向きなものとして受け取ったようだった。「なら」父が口を開く。その先を聞く前に。郁人先生が、静かに言葉を重ねた。「ただし」短い一言で。父親たちの視線が、郁人先生へ戻る。「白松先生に意思がないのであれば」郁人先生は、初めてこちらを見た。真っ直ぐに。けれど、答えを迫るような強さではなかった。私の表情を確認するように、一度だけ視線が止まる。「進めるべき話ではないと思います」父が、わずかに眉を寄せた。「家同士の話でもある」「そうですね」郁人先生は否定しない。「それでも」「本人が望んでいない状態で進めれば」「後から問題になります」あ
「今後の、白松家と綾瀬家の関係についてだ」父の言葉が落ちた後。個室の空気が、少しだけ変わった。さっきまで聞こえていた資料をめくる音も。料理を下げる店員の気配もない。障子の向こうで、庭の水音だけが続いていた。私は鞄へ伸ばしかけた手を、膝の上へ戻す。「事業の話は、終わったんじゃないの?」父は、すぐには答えなかった。向かいに座る綾瀬家の父親へ、一度だけ視線を向ける。それだけで。この後に話されることが、父一人の思いつきではないのだと分かった。「事業だけの話ではない」父が言う。「両家が今後も関係を続けていくなら、整理しておくべきことがある」言葉は穏やかだった。だからこそ、拒みづらい。「整理って、何を?」問い返すと、真哉兄さんがわずかにこちらを見る。何か言いたそうに見えたものの、口は開かなかった。父に近い兄は、少なくとも話の方向を知っている。けれど、ここで私を助けるつもりはないらしい。まず聞け。その上で、自分の意見を言え。電話で言われた言葉を思い出す。「綾香」父は、いつもと変わらない口調で続けた。「お前も今は独身だ」一瞬。意味を理解するまでに時間がかかった。視線が、無意識に郁人先生へ向かう。郁人先生は、姿勢を崩さず座っていた。驚いた様子はない。だからといって、話を待ち望んでいるようにも見えない。いつも通り。何を考えているのか、簡単には読めない顔だった。「郁人さんも、現在は一人だ」父の声が続く。「医師としての立場もある」「両家の事業にも関わっている」「条件として、悪い話ではない」条件。その言葉に、胸の奥が冷えた。「何の話をしてるの?」分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。父は、ためらわなかった。「お前と郁人さんの結婚についてだ」はっきり言われると。かえって、現実味がなくなった。この席へ来る前。真哉兄さんから聞いた、昔の話を一度だけ思い出した。優との縁談が先に進んでいなければ。綾瀬家も候補だった。相手は郁人先生。もうない話でしょう。そう思っていた。何も始まっていない。本人同士には、何の約束もない。だから、過去の可能性として片づけていた。それが今。父親たちの前で。改めて現実の話として置かれている。「私は」すぐに断ろうとした。けれど、父が言葉を
「具体的には?」「救急と術後管理です」「転院後の情報が途切れると」「再検査や薬剤の重複が起きやすいので」私が考えていたことと、大きくは変わらない。話を聞きながら、資料へ補足を書き込む。少しして、郁人先生がこちらを見た。「白松先生」「はい」「地域側のクリニックから見た場合」「術後の情報は、どの段階で必要だと思いますか」以前より。私へ直接意見を求めることが増えている。けれど、ここではそれも不自然ではない。「退院時だけでは足りないと思います」「術後の経過で変更があった時に」「最低限の情報が共有される仕組みが必要です」「毎回、病院へ問い合わせる形では」「クリニック側にも負担がかかるので」郁人先生が短く頷いた。「その運用なら」「病院側で共有する情報を先に決めておく必要がありますね」「はい」「すべてではなく」「項目を絞った方がいいと思います」会話は、それだけだった。仕事上の確認。それ以上の意味はない。真哉兄さんから聞いた過去の話を、わざわざ思い出す必要もなかった。***料理が進む間も、話題は病院事業から外れなかった。建設の進行状況については、真哉兄さんが説明した。「予定より少し遅れていますが」「診療開始への影響は出ない範囲です」「設備側は?」父が尋ねる。「一部、選定を見直しています」「医療機器の価格だけで決めると」「運用開始後に追加費用が出るので」真哉兄さんは、資料を開きながら説明を続ける。父に近い場所で仕事をしてきただけあって、話し方も判断もよく似ている。感情を挟まず、必要な情報だけを並べる。ただ、父よりは現場の事情を見ている。その違いが、兄らしいと思った。「綾香」突然、父に呼ばれる。「何?」「病院へ戻って、現場はどうだ」仕事の話だと分かっていても、父から直接聞かれると少し身構える。「忙しいけど、戻って良かったと思ってる」「プロジェクトとの両立は」「今のところ問題ない」「クリニックは」「回数を減らして続けてる」父が少しだけ眉を動かした。「必要なのか」「私が続けたいから」すぐに答える。「病院だけでは見えない患者さんの生活もあるし」「プロジェクトに関わる上でも」「地域側の感覚は持っていたい」父は何も言わなかった。反対もしない。ただ、私の言葉を一度整理する
会食当日。病院を出る頃には、空が暗くなっていた。昼過ぎから続いた診療が少し押し、予定より遅くなったものの、店には十分間に合う時間だった。更衣室で白衣を脱ぎ、鏡の前で髪を整える。仕事の会食だと聞いている。父や真哉兄さんだけではなく、事業関係者も出席する。服装も、必要以上に改まることはない。落ち着いた色のワンピースに、薄手のジャケットを羽織った。鞄を閉じたところで、スマホが震える。隼人くんからだった。『もう向かってる?』『今、病院を出るところ』すぐに既読がつく。『終わったら連絡して』昨日、何度も聞いた言葉だった。『分かってる』そう返してから、少し考える。『その場では決めないから』今度は、返事が少し遅れた。『うん』短い言葉だった。それ以上は、何も届かなかった。***店は、父が仕事で何度か使っている料亭だった。門をくぐると、石畳の先に低い建物が見える。庭の灯りが植木の影をやわらかく浮かび上がらせていた。店の人に名前を告げると、すぐに奥の個室へ案内される。襖が開き、最初に目に入ったのは父だった。奥の席に座り、隣には真哉兄さんがいる。綾瀬家の父親は、父の向かい側。郁人先生は、その少し下座に座っていた。ほかにも、医療法人側の責任者と、病院事業に関わる担当者が数名いる。「遅くなりました」頭を下げると、父が時計を見る。「時間通りだ」「病院から直接来ました」「座りなさい」短い言葉に促され、空いている席へ向かう。郁人先生の隣ではなく、真哉兄さんの向かいだった。「お疲れさまです」郁人先生が、いつも通りの落ち着いた声で言う。「お疲れさまです」視線が合う。それだけだった。クリニックで会った時のような驚きも、少し柔らかく見えた表情もない。仕事の場にいる郁人先生は、やはり隙がなかった。必要な相手へ必要な言葉だけを返し、それ以上を見せない。その姿に、少しだけ安心した。今日も、本当に仕事の話なのだと思えたからだ。***乾杯の後、すぐに事業の話が始まった。新設病院の診療体制。地域のクリニックとの連携。救急患者の受け入れ先をどのように分散するか。医療データを共有する際の運用と、現場の負担。父たちは事業全体の話をし、医療法人側の責任者が数字と予定を説明する。本当に、仕事の話だけで。少し肩の力が
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦







